寝ても醒めても櫨、はぜ、ハゼ…

櫨の伝播によって、各地で櫨の研究者が生まれ、技術の向上と共に地域に普及が進んでいきました。
「窮民夜光の珠」高橋善蔵 より

福岡藩では「実植奉行」の職を設けて杉や檜などの植林に当たらせていました。藩主黒田継髙の代である享保、元文のころになると盛んに櫨の栽培につとめ、延享二年には植立櫨見か〆役(うえたてはぜみかじめやく)(櫨栽培の奨励・監視役)を置いて増林を奨励しました。
1730年(享保15)、福岡藩那珂郡山田村(現・那珂川市)の庄屋高橋善蔵は思い立って櫨の栽培を始めます。当時、西日本では四木と称された茶、楮、桑、漆の中でも一般的に植えられていたのは茶と楮ぐらいで桑や漆は自然に近いものだったと考えられます。櫨の栽培法に関する文献は皆無。善蔵は自分の体験のみを頼りに寝ても醒めても心の中は櫨のことを考えて栽培の研究に明け暮れ、ついに独自の栽植体系を作り上げました。1747年(延享4)の9月、善蔵は「窮民夜光の珠」を書き上げると翌十月には早くも実植奉行の目にとまり、藩内の40人の大庄屋にその写本をとって配分するように指示されました。このことは福岡藩としても植栽培の改良と普及を急務とする事情があったわけで、今で言う、最先端技術の競争みたいなものでしょうか。
※左図は高橋善蔵による櫨の木の剪定図。現在においてもこのような剪定が実施されている。
竹下周直「農人錦の嚢」と松山櫨

「窮民夜光の珠」が大々的に写本製作されて藩内に広まって3年後、隣の久留米藩でも櫨の栽培書を書いた人がいました。生葉郡亀王村に住む庄屋(後に大庄屋)の竹下周直です。周直もまた同時期1730年(享保15)頃から櫨を植え始めていたのです。1750年(寛延3)に書かれた「農人錦の嚢」は、長年の自らの実証実験を踏まえて、「窮民夜光の珠」に欠けた事項の補足や、より精密な叙述、新しい見解といった、いわば「夜光の珠」改良版なるものに仕上がっているのが特徴です。
その後、周直は1752年(宝暦2)に久留米藩から抜擢されて検見方下役(在職中は士分格)となりました。検見方は相当な学問と深い農政・農事面の知識が必要な役職です。さらに全藩的に波及した宝暦一揆後の混乱した農村の立て直しとして大庄屋への昇任などは、彼が藩から実務的な指導者としての手腕が評価されたものと言えるでしょう。
宝暦年間に、彼は耳納山の中腹にある「松山」と呼ばれていた地域(現森部地域)で、突然変異の優良種・松山櫨を発見し、以後は自身が研鑽を極めていた接ぎ木技術を駆使して、松山櫨の接ぎ木苗は九州各地へ広まります。松山櫨は1802年(享和2)に出版された大蔵永常「農家益」では筑前・筑後・豊前・豊後で栽培されている七種の銘柄のうち「松山種を最上」とすると賞されており、広がった松山櫨から、御原郡小郡村の伊吉櫨や、さらに各土地で根づいた新たな品種が生まれるなど、改良種の元祖的な存在となりました。
内山伊吉の伊吉櫨

高橋善蔵と竹下周直が櫨を植え始めた1730年(享保15)、もう一人の偉人が生まれます。久留米藩御原郡小郡村の内山伊吉です。小郡町の庄屋池内孫左衛門は島原より櫨苗(薩摩苗?)を購入したことから始まりました。やがて池内は伊吉と共に櫨の木の品種改良を進め、「松山櫨」の種から「伊吉櫨」を作りました。松山櫨の特徴として、豊凶の差があげられるのですが、伊吉櫨は生産量は多いままで、毎年ほぼ変わりなく実をつけていく優良品種です。
周直と伊吉の死後、1832年(天保3)に亀王騒動がおきました。藩米売捌の命を受けた大庄屋が、代銀全額前納入のために生じた負債を農民に負担させようとして、怒った農民2000人が大庄屋や庄屋・商家を襲って打ち壊した騒動です。この騒動の結果、なんと竹下家は七郡追放となってしまいます。後継の秋山勘繰九郎は、この機に小郡村から「伊吉櫨」を購入し、接ぎ木で普及事業を続けていきました。現在多くの地域で残っているのは「伊吉櫨」であり、小郡村に活気を与えた伊吉櫨は、現在でも数多く栽培されています。
伊吉の功績を讃え、小郡市役所の隣の東町公園内には内山伊吉の碑が立てられています。
上田俊蔵「櫨育口伝百ヶ條」と群烏(むらがらす)

1784年(天明4)、上田俊蔵は宇佐郡上田村(現大分県宇佐市)の代々の村庄屋の家に生まれました。当時、宇佐郡周辺は元禄以降、幕府の直轄地でした。西国郡代である塩谷大四郎は、周防灘西岸の豊前海岸を埋め立てて新田開発をする計画を立てました。請け負うのは近隣の財力・家格のある商人や庄屋です。上田もまた、庄屋として駅館川(やっかんがわ)の下流・佳江新田を10年ほど請け負います。
幕末において、もっと稼げる新しい商品作物を増やして経済の再生を目指した上田は、屋敷内に櫨を植えては櫨研究に没頭しました。大規模な新田開発に比べたら、櫨の栽培はいとも簡単で資金も労力も万分の一だと述べています。やがて、天保年間末期、既存の「松山」、豊前産「太公房」などよりも、もっと良い評価を得るようになる「群烏(むらがらす)」を創り出し、「櫨育翁」「櫨樹翁」と呼ばれました。
群烏は、遠くから見るとあたかも烏が群れてとまっているように見えるところから命名されたほど櫨の実が成ったという品種です。宇佐市内に記念樹が残されていますが、現在、栽培する人がほとんどいなくなってしまったのは残念なことです。
長州へ渡る櫨 林勇蔵へ

林勇蔵は1813年(文化10)吉敷郡矢原村(現 山口市)に生まれました。1855(安政2)年、小郡宰判(宰判とは長州藩の行政区画)の大庄屋になった翌年、萩藩で産物取立政策が実施されます。この政策の中心が櫨の専売制で、推進役となった勇蔵や、高井三郎助は、筑後、豊前、豊後より大量の優良櫨(松山、桜島)を購入し普及を図りました。
すでにその頃、船木宰判の高泊村の作花理右衛門(船木櫨改方)は宇佐の上田俊蔵と櫨苗の取引を行い、永常の「農家益」を紐解きながら上田に学び、櫨苗を仕立てていました。藩が招いた肥後の樹芸家鹿子木健之助に接ぎ木の方法や栽培方法を教えをうけていましたが、勇蔵もまた作花に接ぎ木方法を学びました。勇蔵は作花を通じて上田から「群烏」の苗と接ぎ木用の接ぎ穂を大量購入しています。
こうして群烏は長州藩内に広がり、櫨蝋は長州の特産物・防長3白(米・紙・塩)に蝋を加えた防長4白となっていきます。後に勇蔵は高杉晋作らの改革派を財政的に援助し勤王大庄屋と呼ばれています。
参考文献
『窮民夜光の珠』日本農書全集11
『農人錦の嚢』日本農書全集31
『櫨徳分并仕立方年々試書』日本農書全集33
HP「山口県の先人達」http://heisei-shokasonjuku.jp/senjindb/hayashiyuzo/
