ハゼノキ到来 スゴい木が来た

「農家益」大蔵永常 より

江戸時代以前

I took this image at Daianji Nara, Nara Pref., Japan.©Tawashi2006

 日本では、奈良時代にはすでに仏教の伝来に伴って蝋燭が用いられていました。747年(天平19)に記された大安寺の〈伽藍縁起並流記資財帳〉にも722年(養老6)の元正天皇から同寺に賜ったもののなかに 〈蝋燭40斥8両〉の品目があります。蝋燭の管理のために専門の職員も置かれていました。これらの記録にある蝋燭は支那から輸入された蜜蝋だと考えられています。

 戦国時代の漆ろうそく

うるしの実と種 浄法寺にて 

天正二年(1574)、「春日山日記」では上杉謙信が越後蝋燭3000挺を徳川家康に送った記事があり、他にも葦名某が信長へ駿馬3疋と会津蝋燭1000挺を進献した記録もあります。
当時は漆蝋による蝋燭で、この頃にはすでに越後や会津で大規模な製造が行われていたことがわかります。

「太閤記」によると、1594年(文禄3)に堺の薬屋(納屋)助左衛門がルソン(フィリピン)から帰ってきて、ろうそく1000挺を秀吉に進献したと記録もあります。

神屋宗湛による櫨の輸入?

神屋宗湛 広寿法雲賛

 筑前では天正年間(1573〜1592)に博多の豪商・神屋宗湛が櫨の実を支那より取り寄せ、肥前唐津に試播したと伝えられています。「神屋家由緒書」によると、神屋家の仕事として蝋しぼりの製法を黒田藩へ勧め、家中や在の者で櫨を植えたいと希望する者へは余分に仕入れた苗木を与えたため、蝋板場株の取得を許され、大阪船積み運上の権利を頂戴したといわれ、それによって櫨が広まったといわれています。
 しかし実はこの文書を裏付ける史料が見つかっていないのと、その150年後に書かれた福岡藩の庄屋・高橋善蔵による「窮民夜光の珠」の冒頭の「肥前へ渡ってきたのは、明らかにわずか十数年前のことにすぎないが…」との記述から、神屋宗湛は肥前唐津に植えた可能性はあるとしても、それがそのまま各地に広まったとは考えにくいことです。
 薩摩苗が取引された記録は多いので、むしろ薩摩方面から各地へ広がったのではないでしょうか。

薩摩から九州を北上か

「雄川の滝」 南大隅町

永禄年間(1558〜1570)、大隅半島の南西海岸にある小根占(現・南大隅町根占)の領主第16 代彌寝右近太夫重長が毎年、支那に渡航する商船に托して櫨苗を取り寄せ所領地に植栽したとあります。(彌寝家伝承・島津国史)
根占には桜島の小河に漂着した中国船が、櫨実と製蝋を教えたとの伝説があります。(「農家益」大蔵永常)しかし桜島には小河という地名もなく、湾口遠い桜島まで漂流するとは考えにくいため、小河は根占の「雄川」の誤りだと考えられています。

辺田地区の櫨 (2016年撮影)

ちなみに、薩摩では藩財政の窮迫への打開策として、悪名高い櫨の強制耕作制度がとられました。これは一種の専売制で農民は全くの夫役であり、巨額の利潤はすべて藩に吸い取られてしまったため、郷士(下級武士)にも農民にも負担が大きく、明治維新後は親の仇とばかりに、ほとんど切り倒されてしまったそうです。(『鹿児島県大百科事典』より)
南大隅町の辺田地区は最も櫨の多かったところです。

日本各地に伝播する櫨

山に櫨の苗を植立てしている様子。 「農家益」大蔵永常より

 元禄(1688~1704)・宝永(1704~11)の頃、会津出身の金山職人が、桜島の櫨の実は製蝋に適していると薩摩の人に告げ、実際に製蝋したところ大いに成功しました。薩摩藩は初めの頃は地場産業として櫨を藩の専売とし、藩外への流出を厳しく取り締まっています。おかげで、福岡藩の那珂川村の庄屋・高橋善蔵が薩摩から櫨の種を持ち帰るために、おにぎりに入れたという伝説も残されたほど。
 次第に薩摩苗の流通とともに、蝋絞り技術も伝播していきました。
 公的な記録をみると、萩藩では1681年(天和元)から苗の移入を試み、普及はしませんでしたが再び1729年(享保10)に村上平次郎に指導させ栽培を奨励させました。細川藩では1724年(享保9)に薩摩より種子を購入して飽田郡春日村に播き、紀州藩では1736年(元文元)に田中善吉が薩摩から種子を持ち帰っています。久留米藩では1749年(寛延2)には桜島から1万本の苗が購入され生葉郡に植え付けさせました。

こうして薩摩の苗、つまりリュウキュウハゼ(ハゼノキ)が各地で広まっていきます。